**すぐに謝る国、絶対謝らない国■1.謝らない中国■中国の反日暴動が燃えさかっている。日本大使館や日系商店 に投石して窓ガラスを割り、日本人留学生をビール瓶や椅子で 殴って怪我をさせた。 当然、日本政府は謝罪と賠償を要求したが、中国外務省の報 道官は「日中関係が今日のような局面を迎えた根源は日本側に あるのは明かで、日本は反省に値する」と述べた[1]。これほ どまでの厚顔ぶりに、怒りを通り越して、呆れてしまう日本人 も多いのではないか? 中国は絶対に謝罪しない国のようだ。原潜の領海侵犯でも、 サッカー・アジアカップでの暴動でも、あれこれ理由をつけて 結局きちんとした謝罪はしていない。 朝日新聞などは従来から「日本側が歴史問題に関して、心か らの反省と謝罪をしないから、中国側の理解を得られない」と いう論理を振りかざしてきた。しかし、そんな理屈も、絶対に 自分の非を認めず謝罪をしない中国側の態度に色あせてきた。 こういう国に謝罪しても、後でどう利用されるか、分からない からである。 世の中には絶対に謝罪をしない国や国民がある。そして世界 的に見れば、どうもこちらの方が普通のようなのだ。 ■2.謝らない文化■ 東洋大学の社会学部の長野晃子教授の著書「日本人はなぜい つも『申し訳ない』と思うのか」には、この点を関する極めて 興味深い体験談が出てくる。[1,p137] ある時、長野教授はフランス人4人と食事をするために、6 時半に待ち合わせをした。しかし、待ち合わせの時間と場所を 指定した張本人のフランス人D氏がなかなか現れない。寒風の 中を30分以上待たされて、ようやくD氏は7時過ぎに現れた。 D氏が腕時計を見て「ああ間に合った。約束は7時だったよ ね」ととぼけたので、3人のフランス人の猛烈なブーイングが 始まった。それでも遅刻したD氏は最後まで謝らなかった。 顔を真っ赤にし、おでこの血管をピクピクさせ、寒い季節だっ たのに、頭から湯気が立つほど汗びっしょりになりながらも。 長野教授はその光景を見ながら思った。「申し訳ない」とD 氏が一言いえば、待たされた方も気が済むだろうし、本人も気 が楽になるのに。謝らない文化もなかなかストレスがたまるの だな、と。 D氏が日本人だったら、まずは「申しわけありません」と謝 るだろう。そして「タクシーを飛ばしてきたのですが、交通事 故で道路が渋滞していたものですから」などと遅れた理由を説 明する。このように自分の責任ではない不可抗力の原因でも、 とにかく謝るのが日本人の流儀である。そして「それなら、仕 方がないよ」などと、待たされた方も許す。 「誠意を持って謝罪すれば、許してくれる」というのが、日本 人の考え方だ。朝日新聞流の「心からの謝罪をしないから、許 してくれない」というのはこれの裏返しで、すぐに謝る日本人 の心理を巧みについたプロパガンダなのである。 ■3.「30年後に罰されるであろう」■ 罪や謝罪に関する日本と欧米の違いを、長野教授は民話など を対比させつつ、明快に解き明かしている。たとえば、中世の 欧州には次のような民話があった。 貧しい若者が金持ちの娘と結婚したいと思うが、娘は若 者が貧乏なのが気に入らない。そこで若者は商人を殺し、 財産を奪う。娘が若者にどういう罰を受けるのか聞いてく るように言う。若者が殺した商人の墓に行くと、商人は起 きあがって、神に裁きを求める。すると天から「30年後 に罰されるであろう」という声が聞こえた。 娘は若者との結婚を承諾し、二人は幸せに暮らす。30 年後に罰が下り、二人の屋敷は瞬時に地中に没し、その跡 は湖になった。 この話は教会でお説教に使われたという。「殺すなかれ」 「奪うなかれ」という神の掟を破った罪として、若者が死後、 永遠に地獄の業火で焼かれ、苦しんでいる事を伝えて、戒めと したのだろう。 ■4.コインロッカー・ベビーの怪談■ これに対して、次のような日本の現代の怪談を対比してみよ う。 東京で、ある女が「遊んでいる」うちに子供ができてし まった。一人で生み落とし、赤ん坊を東京駅のコインロッ カーに入れ、カギをかけて、棄ててしまった。女はそれ以 来、東京駅には近寄らなかった。 数年後、就職した女は上司の命令で、東京駅近くの取引 会社に書類を届けることになった。ためらいながらも、あ のコインロッカーの前を通ると、小さい男の子がうずくまっ て泣いていた。周りの通行人は、なぜか、その子に目もく れずに通り過ぎていく。 「どうしたの?」と女は聞いたが、返事がない。「お父さ んは?」と聞くと、「分からない」と下を向いたまま、泣 いている。「お母さんは?」と聞くと、男の子は顔を上げ、 「お前だ」と言って、消えてしまった。 ■5.罪と良心の呵責■ 以上の二つの話を比べてみると面白い。欧州の民話では、殺 した商人が起きあがっても、若者は謝るでもなし、怖がるでも ない。その後も、若者と娘は良心の呵責をまったく感じずに、 30年間も幸福に暮らす。そして30年後に受けた罰は、屋敷 もろとも地中に埋められるという、きわめて「物理的」なもの だ。 一方、日本の話では、殺した子供が姿を現す所に最大の恐怖 感がある。しかし子供は単に現れて消えただけで、物理的な危 害を加えるわけではない。なぜ、これが怖いのだろうか。 それは、やはり女に自責の念があるからである。そして、こ の後も死ぬまで女は良心の呵責に苛まれるだろう。したがって 日本の罰は良心の呵責や、それに基づく恐怖という、自らの内 心から来る心理的な罰である。 欧州では、罪は「殺すなかれ」「奪うなかれ」という神のル ールを破った事であり、その結果として神から物理的な罰を与 えられる。裁き手は外部にいる神である。 日本では、罪とは相手に害を与えることであり、その結果、 受ける良心の呵責が心理的な罰となる。裁き手はあくまでも内 心の良心なのだ。 ■6.欧米では自首はきわめて珍しい■ 商人を殺した若者に見られるように欧米諸国では犯罪者が自 分の罪を悔いて自首することはきわめて珍しいそうだ。 フランスのある判事は、自首は自分の利益に反する行動であ るから、はなはだ希であって、もし自首して来た者があったら、 その者が精神異常者でないかどうか調べなければならない。精 神異常者でないならば何の目的で自首してきたのか調べなけれ ばならない、と手厳しい。そして自首の80パーセントは嘘だ と断定する。 日本での自首は殺人罪については、捜査の手掛かりの6パー セントが自首によるものだそうだ。そして捜査官に「申し訳な い」と心を開いて自首するものが大部分なので、自首に嘘が多 いということはないそうである。[2,p129] 自首の一例として、元暴力団員が金目当てに犯した11年前 の殺人事件を自首した例が挙げられている。被害者が毎晩、夢 枕に立って自首を勧め、男は罪の意識で酒浸りになっていたと いう。まさにコインロッカー・ベビーの実話版である。 この男は、自首して洗いざらい告白した結果、ほっとした表 情になったという。罰とは内心の呵責なので、心からの謝罪を 相手が受け入れてくれれば、罰が緩和されたと感じるのだろう。 ■7.アダムとイブの責任転嫁■ それに対して、欧米では罪は神の定めたルールを破ることで あり、その罰も神から与えられるとすれば、加害者が被害者に 謝罪するという意味合いはあまりない。欧米における罪と罰が 極めて論理的物理的なもので、謝罪とか、内心の呵責などとい う心理的なものは、ほとんど出る幕がないようだ。 この事は聖書の「原罪」のシーンを読むとよく分かる。神は アダムとイブをエデンの園に住まわせたが、「善悪の知識の木 の実は、決して食べてはならない」と命じた。しかし、イブは 蛇にそそのかされて、いかにも美味しそうに見える知識の木の 実を食べてしまい、アダムもそれを渡されて食べた。 神がそれに気がついてアダムを問いつめると、彼は「あなた がわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って 与えたので、食べました」と答える。自分が罪を犯したのはイ ブのせいだと責任転嫁し、さらにそのイブは「あなたがわたし と共にいるようにしてくださった女」だと、暗に神にも責任が あるかのような口ぶりである。 神が今度はイブを問いつめると、イブも「蛇がだましたので、 食べてしまいました」と、負けじと蛇に責任転嫁する。こうし たやりとりの結果、神は蛇には地面を這いまわらせるという罰 を与え、女には産みの苦しみを、男には生涯食べ物を得る苦し みを罰として与えた。 この人類最初の「原罪」からして、アダムもイブも責任をた らい回しにして、何ら謝罪していない点に改めて驚かされる。 罪と罰の決定に、謝罪や内心の呵責などはなんら関係ないよう だ。 これが日本の民話だったら、アダムはすぐにはいつくばって 神に「申し訳ございません」と謝り、イブは「いえ、そそのか したのは私です。罰は私だけにお与え下さい」などとアダムを かばう。神は二人の「神妙さ」に感じ入って、死罪一等を免じ て、楽園追放に処した、という所であろう。 ■8.日本と欧米との罪の違い■ もう一つ、日本人の腑に落ちないのは、なぜ知識の木の実を 食べることが罪なのか、という事である。たとえば、神がこの 木の実を大切にしていたので、それを食べられてしまって悲し んだというなら、日本人にも罪だと納得できる。神に迷惑をか けたからである。 しかし、聖書にはそのような記述は何もなく、単に神が食べ てはいけない、と言っただけで、それが罪とされたのである。 いかにもおいしそうな木の実を見せつけておいて、食べたら罰 する、というのは、日本人には一種のイジメのように見える。 欧米人にとっての罪とは、神あるいは法律が禁じた事をなす ことである。それに対して、日本人の罪とは他者に危害や迷惑 を与えることである。 この違いが鮮明に現れるのが、自殺を罪と考えるかどうかで ある。欧米では自殺を罪とする。「殺すなかれ」というモーゼ の十戒の一つに違反するからである。多くの日本人はこれを 「他者を殺すなかれ」という意味だと誤解しているが、欧米人 は自分も殺してはならないと理解している。それに対して、日 本では自殺自体はそれが他者に迷惑をかけない限り、罪とは考 えない。 女子中学生の援助交際なども、「誰にも迷惑をかけていない」 などと正当化する言い分があったが、これも「罪とは他者に迷 惑をかけること」という日本的な考えが無意識の底にあるから である。欧米なら「姦淫をしてはならない」と十戒にあるから 罪である、という事になる。 ちなみに、援助交際が罪である理由をこう説明してはどうか。 「君をここまで育ててくれたのは、両親や社会のおかげで、そ の君が立派な大人になって社会に恩返しできるようにならなけ れば、両親を悲しませ、社会に迷惑をかけることになるのだよ」 と。 ■9.すぐに謝る国、絶対に謝らない国■ 罪とは他者に迷惑をかけることであり、そこから良心の呵責 に苛まれる事が罰である。そして相手に謝ってそれが受け入れ られれば、罪も罰も消える。こういう日本人の感じ方は、子供 の頃から教え込まれたものである。たとえば小学校1年生の道 徳の教科書には次のような話が載っている。 (男の子がだれもいない部屋でコップをひっくり返す) 「あっ、こぼしちゃった」 (テーブルの下に猫がいる) 「そうだ、たまのせいにしよう」 (そこへお母さんがやってくる) 「ぼくのせいじゃないよ」 おかあさんは、ぼくのかおをじっとみて、さびしそう に、「そう」といいました。そうしたらぼくも、きゅう にさびしくなってしまいました。[2,p57] 「ぼく」がさびしくなったのは、お母さんが自分のせいでさび しそうな顔をしたからだ。そういう思いをさせて、お母さんに 迷惑をかけた事に「ぼく」は自責の念を感じる。 しかも、お母さんがさびしく思ったのは、コップをひっくり 返した事よりも、「ぼく」が素直に謝らなかったことだ。こう いう話を読んだ子供は、人に迷惑をかけたら素直に謝るべきだ という事を学ぶ。そして心から謝れば、その罪は許される、と 思いこむようになる。 日本人の罪と罰、謝罪に関する感じ方は、子供の頃からのこ うした教育によって育てられたものであろう。しかし、これは あくまで日本文化に根ざしたものであり、世界の多くの文化で はそうではない事を知るべきだ。 素直に謝っても、それを受け止めてくれない国民、あるいは 逆手にとって悪用する国民がいる事を我々日本人は知らなけれ ばならない。同時に他国に迷惑をかけても素直に謝らないこと が、日本人の心にどれほどの不信感を引き起こすかを、中国政 府は知るべきである。 (文責:伊勢雅臣) |